ワンダーウーマン1984

アウトプットは大切だと書いた手前、本日年内最後の映画鑑賞となるであろう表題の作品について、感想をアウトプットしておかなければと、自分で自分の首を絞めた。

ワンダーウーマンを知らない人はいないと思うが(一応、お約束の嫌味です)、簡単に説明しておくと、アメコミブランドのDCコミックスにおいて、スーパーマンやバットマンに並ぶ人気コミックシリーズ。

ワンダーウーマンことヒロインのダイアナ・プリンスは、アマゾン族の特使であり、女神。その正体を隠して、現代社会に生きている。

原作コミックスのことを細かく描き始めるときりがないので、そんなワンダーウーマンの実写映画が2017年に公開された。表題作は、その続編となる2作目。

時代はタイトルにも付いている通り、1980年代のアメリカが舞台。人類学者としてスミソニアン博物館で研究員として働くダイアナが事件に巻き込まれていく。

(以下、ネタバレあり)

見所は、前作で死に別れた恋人のスティーブを邪神の力で蘇らせてしまうダイアナだが、その代償として女神としてのスーパーパワーを徐々に失っていく。

しかし、その邪神に魅入られ、世界を危険に晒すこととなる石油採掘ビジネスを営む実業家のマックス・ロードと戦うため、邪神との契約を破棄し、女神のスーパーパワーを取り戻す。

しかし、当然その代償には、蘇った最愛の人との、二度目の別れが待っていた。

主演のダイアナを演じるガル・ガドットはイスラエル出身の女優さんで、とにかく彼女自身がコミックから抜け出てきたのではないかと思うくらい美しい。ワンダーウーマンを演じるのに、これほど適した女優さんはいないのではなかろうか。

そんな美しくて、強いダイアナが、世界を守るために最愛のスティーブとの別れを迫られた時、スーパーヒーローでもなく女神でもなく、一人の女性として泣きじゃくるシーンでは、おそらく人種も性別も超え、そのキュートさに心臓を掴まれるのではなかろうか。このシーンを見るためだけでも、コロナ禍に映画館へ行くリスクをとる価値がある。

世界を守るため愛する人を失うダイアナ、愛する息子を守るため世界征服を諦めるマックス・ロード。その二人の対立的な構図で問いかけてくる本作は、見るものの『正義』が試される。

スーパーマンにしろバットマンにしろ、DCコミックスの映画化は、近年、マーベルコミックの映画化作品群と比較され、及第点以下の評価も多い中(クリストファー・ノーランの作品は別として)、本作は(やはり演出に各所突っ込みどころは満載だが)主演女優の魅力だけで押し切れるだけの華がある。

また、VFXも素晴らしく、コロナ禍でなかなか映画館で映画鑑賞もままならない中、わざわざ足を運ぶだけの価値ある、スカッと爽快な画作りになっていることも好感が持てる。

今年最後の映画館鑑賞作品にこの映画を選んで良かったなと、素直に楽しめた作品。

アウトプット

年末になると、忘れていたブログの更新する。

毎年、年末の恒例行事。

それでも、久しぶりに文章を書いてみると、アウトプットすることの有用性について考えさせられて、やらないよりは良い。

アウトプットは年末の大掃除である。

そんな視点から久しぶりのブログ更新をしてみよう。

今年(2020年)は、コロナウィルスの世界的な流行により、後の教科書に載るような一年だった。

かく云う吾輩も、一昨年の夏に6年務めた永田町での仕事を辞め、晴れて自由の身になってから、新たに関わりだしたロボティクス関連の仕事を通して、仕事の環境を考え直す良いきっかけができ、このコロナ禍において、それを実践するに至った。つまり、十数年ぶりに引っ越しをし、久々に個人の仕事部屋を手に入れたのである。

元々、じっとしているのが苦手な性分だと思い込んでいたので、カフェでノマド(死語)を気取っているのが性に合っていた。が、久々の個人部屋は快適過ぎて、むしろ外出しなくなった。

だからこうして、年末の夜中にふらふらと夜の散歩もせず、ブログの更新もできる。

そして、こうして文章を書くと云う行為を久しぶりに集中して行うと、文章を書くと云う行為を通じて、自分の頭の中のモノ・コトをその都度整理するのに、大変役に立つと言うことを気付かされる。

いくらインプットしても、アウトプットしないと頭の中で情報が整理されず、記憶として定着しない。しかし、アウトプットするために脳内で情報の整理を行うと、その情報はどうやら長期記憶の側へと書き込まれるらしい。

なんだか、そんな当たり前なことを今更再発見する。

そう、だから、アウトプットすることは年末に大掃除して一年の埃を払い落とし、気持ちよく新年を迎えるための、精神衛生上有効なセレモニー(儀式)みたいなものだ。